2014
05.24
兄と

追憶

日常の記録

2004年5月25日
2歳上の兄が亡くなった日。

明日でちょうど10年。…10年か。
この10年の間、
大学卒業して
就職して
結婚して
子どもが生まれて、しかも超未熟児で大変で
祖父が亡くなって
起業して
東日本大震災があって
熱射病で倒れて
博士過程に再入学して
祖母が亡くなって
父親は2度目の離婚して(驚)

気が付けば、32歳。
小さいながらも社員数名抱えて会社を経営。
子どもも3人。博士課程学生。

1年を振り返ることは毎年やっていたけど、
10年を振り返るということは初めて。

人と社会に育てられてきた自分に、
人と社会のためになにができるか?という気持ちが芽生え始めている。

それでも、まだまだ育てられる方が圧倒的に大きいけれど。

兄が亡くなった時の年齢、24歳。
単純に「24歳の人」といえば、今の自分の感覚では「若いな」と思える。

しかし、実感としては兄と自分の年齢差は止まったままで。
24歳の兄に対しても、未だ年齢を越えることのできない感覚を持っている。

兄が生きていれば、34歳。
なにを話すのだろう。どれから話せばいいのだろう。

「俺は頑張っているよ」とか言いたいのだろうか、自分は。

兄が亡くなる直前に言っていた、
「働きたかった」「人のためになることをもっとしたかった」
「俺の分はお前がやってくれ」
死の淵に立つ人間から発せられた、断片的なメッセージ。

でも、それは確実に自分に向けられていて。

今、子どもを3人(長女、長男、次男)を持ってみて、
長男と次男がけんかしたり、泣きわめいたり、ちょっとやさしくしたり。

そんな光景を見て、
「そうそう、俺と兄もこんなやりとりしてたっけ」
deja-vuとまで行かないけれど、そう感じることも多い。

自分と兄とのやりとりは至って普通の兄弟だったと思う。
でも環境が少し大変だったかな。(もっと大変な家庭もあると思うけど)

同じようにご飯食べて、同じように寝て、暮らして。
テレビ番組やファミコンの取り合いして。
どこにでもあるような、それでいて幸せなんだろうなと思える距離。

9歳の誕生日に、駅で待ち合わせしていたら暴漢(精神異常者)に襲われて
兄が守ってくれて、自分の代わりに殴られて。

両親が離婚して、母親が家を追い出されたとき、別の人と既に結婚していて
どうあがいても子どもの自分には理解できない状況で当り散らす自分を
ただ黙って見守ってくれて。

継母に虐待(夜寝ているときに扇風機投げつけられたり)されたとき
本気で怒ってくれて。

母親が引き取れる準備(経済的な)ができても、
自分を先に行かせてくれて。

結局、家族バラバラになってしまったけど、
10年くらい一緒に暮らせた。

そんな同じ目線で生きてきた片割れのような存在が、
「末期がん」で寝たきりで。なにもできなくて。
昔やったファミコンのBGMを打ちこんで聞かせるくらいしかできず。

死後、兄には失礼ながら兄の遺品のほとんどを自分が預かり、
兄の日記を読んだとき、
「今日、弟くんの結果(骨髄移植)が出る。
 これが出なければ不戦敗。。。なんとか戦いたい。」
慌てて、3月25日(亡くなる2か月前)に兄からもらったメールを
掘り起こす。

「最高の誕生日プレゼントありがとう!
 75%適合(自分がドナーとしての適合度)。体力つけるしかない。」

24歳の兄が「死」と「病気」とこうした一縷の望みにかけていて
不安に押し潰れそうな心境だったはずなのに。

腫瘍は全身の皮膚に拡がり、毎日ケアしているのに、
病室のシーツを変えるときには血のりがひどい状況だったのに。

そんな凄惨な状況でも、
「人のためになることをもっとしたかった」
そう思える(既にろれつ回らない状況、文字盤で)心の強さに
少しでも近づきたくてこの10年生きてきたのかもしれない。

「余命半年です。」

主治医からそう宣告されたのが5月24日。
次の日、兄の容体は急変し亡くなった。母の腕の中で。

結局、骨髄移植をできる体力が持たず、ターミナルケアをすることもなく。

兄の最後の「夢(兄がそう表現)」であった、
家族4人で晩御飯を食べたい。それも叶わなかった。

今、改めて日常を振り返ってみると
本読んでいるときには声をかけても反応しない長女。
(兄もそうだった)
長男と次男との実に子どもらしい駄々やケンカ、やりとり。

兄が生きているときには気づかなかった、実は守ってくれていたこと。

そうした心の強さを育んだ日常は、
守られてばかりだった自分が人に支えられて
なんとか営むことができている今の家庭シーンにも
日常的に見られるようになったこと。

兄が亡くなった時は、いつか自分が世を去るときに、
兄が為したかったこと(自分にはわからない)の一部にでも
触れられるように世のため、人のため、役に立つことに邁進しようと思った。

自分の為すことが、世に、社会に記録されるならば、
それは兄の影響が及んでいて、兄がいたことの意味が同時に記録されると思えたから。

ちょっと前のFacebookの投稿でも書いた
長女とのやりとり(@長女の誕生日)。

長女:どうしてきょうはわたしの誕生日なの?
自分:5年前の8月2日に生まれたからだよ。
   最初あったときはてのひらにのるくらいちっちゃかったんだ。
長女:どうしてちっちゃかったの?
自分:3か月もはやくうまれてきたからだよ。
長女:どうしてはやくうまれてきたの?
自分:それは(長女)が知っているんじゃないかな?
   パパに教えてくれるかい?
長女:うーん。。ちゃんと覚えてないけど
   みんなとはやくごはんたべたかったからじゃないかな。
自分:そうかー。じゃあみんなでごはんたくさんたべようね。

兄が叶えたかった最後の夢「家族4人で晩御飯をたべること」を
長女は知っているはずもないが、近しいことを言っている長女に、
兄の面影を感じたりもする。

認知症だったはずの祖母も亡くなるちょっと前に

「ふつうでおることを心がけなさい。
 世の中はあがったりさがったりするんじゃから」

と声をかけてくれた。自分の母親には「あんた誰?」と言っている横で。

10年経ってみて、兄が自分に伝えたかったことは
素朴でシンプルなものだったのかもしれない。

育った家庭はそれなりに大変だったけど。
自分の家庭、子どもたちが育つ家庭は自分の努力でつくれるわけで。

嫁さんや子どもと笑ったり、おいしいねってごはん一緒に食べたり。
そんなあたりまえだと信じてやまない日常が本当に大切なものだと気づくのに10年かかった。

兄が生きていれば、34歳。

こうして振り返れば最初に伝えたいことは
「有難う。」だと気づく。

本当に今が有ることが難しいもので、
自分一人のちからでは叶わなくて。

亡き兄と対話の試行を繰り返す10年。

学ぶことは本当に多い。
反省すべきことも本当に多い。
でも感謝が一番多い。

次の10年には、「有難う」より踏み込んだ一言を紡げるように、
これから出会うひと、これからの社会、これからのこどもたち、
将来的に有ることが難しくても、それを引出し良くしていけるような
そんな生き方を示せるようにひたむきに努力する日々を過ごしたい。